東京オリンピック(1964年)の最終聖火ランナー「坂井義則」はどんな人?

前回の東京オリンピックは1963年。この時、聖火台に火をともす聖火ランナーを務めた人は、著名人ではありませんでした。ある意味一般の陸上を愛する若者でした。ただし彼の生い立ちには、東京オリンピックで聖火ランナーをつとめる大きな意義があります。

そこらへんを踏まえて東京オリンピック最終聖火ランナーである「坂井義則」について紹介します。

東京オリンピック聖火ランナーのプロフィール

  • 坂井 義則(さかい よしのり)
  • 1945年(昭和20年)8月6日生まれ
  • 広島県三次市生まれ(出生当時は双三郡三次町)
  • 東京オリンピック(1964年)の最終聖火ランナー

 

坂井義則さんの詳細プロフィール

坂井義則さんは、第二次世界対戦の終戦を決定づけた広島原爆が投下された1時間半後の1945年(昭和20年)8月6日に産まれました。

陸上選手としての坂井義則

高校生の時には、陸上競技での才能を発揮します。第19回国民体育大会(1963年)陸上400mで優勝したしています。

その後、1964年(昭和39年)早稲田大学の入学、競走部に所属し陸上選手として更なる高みを目指します。東京オリンピックに向けては、陸上400mと陸上1600mリレーで強化選手に選ばれましたが、最終的には代表選考会で敗退し、東洋オリンピックへの出場の道は絶たれました。

選手としての東京オリンピック出場は叶わなかった坂井義則さんですが、「広島への原爆投下の日」という象徴的な日に生まれたところが注目され東京オリンピック最終聖火ランナーに抜擢されます。

東京オリンピックの後も、選手としてバンコクアジア大会(1966年)では1600mリレーで優勝。400mでも銀メダルを獲得した。一定の活躍はしています。ただし、最終的にオリンピックへの出場することはありませんでした。

陸上選手引退後の坂井義則

選手引退後はテレビ業界へ。

1968年(昭和43年)にフジテレビに入社。主にスポーツと報道分野を担当していたとのこと。1972年(昭和47年)のミュンヘンオリンピックや1996年(平成8年)のアトランタオリンピックでオリンピック報道のときには自ら報道にかかわっていました。

2005年(平成17年)フジテレビを定年退職し、フジテレビの関連フジクリエイティブコーポレーションに所属し、肩書きはエグゼクティブプロデューサー。

人生の終わりは、2014年9月10日午前3時1分。都内の病院にて脳内出血で死去した。享年70歳です。

 

坂井義則のオリンピックへの想い

東京オリンピック聖火ランナーを務めたとき、世界のメディアは差言いのことを「アトミック・ボーイ(原爆の子)」と称し照会したそうで、個人的には複雑な思いですよね。

ネガティブキーワードなずの「原爆」を使った呼称には何か引っかかるところがあります。

ただこのように紹介されることで、原爆の恐ろしさ、平和に対する考えを再認識してもらえると思えば、大きな意義はあったと思います。

晩年、坂井氏はオリンピック開催について「平和の祭典ではなくなっている」と言っています。「オリンピックは、既に金儲けの手段」といい皮肉っています。

2020年に開催される東京オリンピックについて、天国にいる坂井義則さんは、どのように評価しているのでしょうか。

 

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